交点の先で

思えば遠くに来たもんだ

せめて今日だけは消えないで

2004年。久しぶりに会った親戚から「何か欲しいものある?」と聞かれて、少し前から心の奥のほうで抱えていた気持ちを言葉にしてしまうか迷ったあげく、意を決して「あらしの、ピカンチダブルって曲のCDが欲しい」と口に出したあの日、小学5年生だった私はあらしのファンになった。あれから15年、中学生のときも、高校生のときも、大学生のときも、そして大人になった今も、あらしはずっと私の隣にいた。あまりに近くにいすぎるもんだから、いつのまにか見慣れてしまったところもあったのかもしれない。それくらい、もはや空気のように当たり前に、生きていくために必要なものとして変わらずそこにあって、それはこれからも続いていくもんだと勝手に思ってた。だけどやっぱり、永遠なんてものは無いらしい。

10代から20代、変わっていく自分の環境が怖くなるときもあったけれど、私には変わらずにいてくれる5人がいたから、歩き続けられた。ひとりぼっちの日も、泣きたい夜も、変わらずにくだらないことで笑っている5人がいてくれたから、乗り越えてこられた。ピカンチダブルのCDが欲しいと口にしたあの日からずっと私の人生にはあらしがいて、どんなときだって「この人たちほんっとくだらないな」って笑っていられたわたしの毎日は、特別な出来事なんて何もないけれどキラキラしていて、宝物だった。

あらしは宝物だと言った、彼の言葉に嘘はないんだろう。それでも、アイドルだろうがなんだろうが、人には人の人生がある。明るい道を歩いていたとしても、この先の長い道のりを遠く見つめたときに別の光を感じてしまったら、たとえその光に実体が無くても見てみたいと思うのは自然なことだ。否定なんてできないし、その光を見せてあげたいって気持ちにも嘘はないよ。

5人を取り巻くあらしというプロジェクトは、やっぱり少し大きくなりすぎたな、と思う。発表されてからたくさん聞こえてくる、知らない人たちからの誉め言葉。そんなことずっと前から知ってるもん、と泣きべそかきながら耳を塞ぎたくなった。だって、5人は何も変わらないから。5人はずっと前からそういう人たちで、そういう5人を15年もずっと、普通に愛していたんだから。ちょっと目立ったからって、お祭り騒ぎにしないでよ。おおげさに過去を振り返ったりしないでよ。ここぞとばかりに外野に構ったりなんか、しないで。やっぱり、背負う看板が大きくなりすぎたよ。もしかしたら本人も、この看板なんのために背負ってるんだっけって、誰に向けて見せてるんだっけって、何が本当なのか分からなくなっちゃったのかもしれないなって、思う。そういう違和感を感じながら歩き続けるのってしんどいからさ。自分を騙しながら進んでいって心が壊れてしまうなら、大切なものを守れなくなってしまうなら、一度その看板をたたむ決断は必要なのかもしれない。あらしがあらしでいられるのが、一番いい。

あらしはいまちょうど、夕暮れの中にいるんだと思う。明るい朝にはもう戻れないかもしれないけれど、かすかにまだ、5人のこれからを落ちていく夕陽が照らしてくれている。青春が終わるのだな、と少し前に呟いたけれど、いつか終わることも含めて青春と呼ぶのなら、やっぱりあらしはまだ青春の真っ只中にいるよ。もしこれがまだ走り続けるための決断なら、ここで一旦途中下車、ってことでしょう。下車した場所で、いろんな景色を見てくればいい。そうしてたくさんの景色を映したそれぞれの瞳の奥になお、4人の姿があると信じてる。しょうくんが言うんだもん、きっとまた会えるよね。

2年という期間は、あまりにも長い。空気みたいにそこにあったものがなくなってしまうなんて、正直まだ実感が無いんだよ。ただなんとなく悲しくて、ただ何となく寂しいけれど、そこにあるのは地続きの日常だから、もう涙も出ない。でもあの日曜日から確実に変わってしまったことがあって、それは2020年12月31日に一度終わりを迎えるということ。でも、終わったはずの夢がまた動き出すことだってあるでしょ。終わりに向かっていく限られた毎日の中で、どうかあらしがそのままのあらしでいられますように。無理に笑ったり、無理に泣いたりしないで、普通の5人でいられますように。せめて、せめて今日だけは。